一昨日のブログで高麗における仏教と儒教について、豆知識のひとつとして書いた。

「高麗では仏教も儒教も発展していた!成宗の時の儒学者崔承老は、政治改革案を提示しながら、仏教は心身を練磨する根本で儒学は国を治める道理だといったらしい」

小中高とキリスト教の学校に通ったからなのか、そして遠藤周作の「沈黙」や「深い河」を没頭して読むような時期があったからなのか、それぞれの宗教がどの時代にどのように、人々の精神性や行動、さらには政治や歴史に影響を与えていったかということには、比較的関心があって、高麗における仏教と儒教の共存というところにも、どうにも関心がいってしまった。

朝鮮仏教史を少し調べてみると、高麗では儒教の流れもあるが、やはり高麗は仏教がもっとも隆盛した国であったようだ。高麗を建国した王建が943年に、今後歴代の高麗の王が守るべき10項目から成る遺訓「訓要十條」出したのだが、その中に、例えば、一. 仏教を良く慈しむこと、 六. 燃燈会や八関会などの祭礼行事は大切に行うこと、などがあるところからも明らかだ。

ところが、第6代王成宗の時代になると、浪費癖のついた国家財政を立て直すために、冒頭に紹介した儒学者、崔承老が改革の基本とする、時務策28條を作る。そこでは、行き過ぎた仏教行事などへの過多な費用の支出が指摘されており、儒教の必要性が強調されていた。例えば、寺院による高利の金貸行為を禁じ庶民の被害をなくすこと、とか、過重な負担を与える霊灯と八関などの仏教行事を慎むこと、などである。

高麗を導いていった官僚は儒学の知識と儒教的世界観を見につけた学者たちであったようだ。国の最高教育機関である国子監では儒学経典を教えたという。でも面白いのは、儒学を勉強した学者たちも、仏教を信じたというところだ。契丹の度重なる侵略が起こるころには、やはり仏力にすがろうという流れになり、1010年には霊灯会と八関会も復活している。

このように高麗では儒教と仏教が共存しながら発達していったようなのである。

と、ここから少し話は変わるが、調べているうちに、中国の唐の時代にも、この宗教の共存というのが存在したということが分かった。高麗が918年~ 1392年続いたのに対して、唐はそれより以前、618年~907年に存在していた国である。唐ではさらに、仏教、儒教、道教が共存していたようである。

歴史は面白い。どんどん深堀りできる面白さがたまらない。

日本・中国・韓国対照年表(http://www.eonet.ne.jp/~libell/tyuunitikan.htmより拝借)

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